スリッページは自分の記録でしか測れない|「コストは呼値の分だけ」をやめる。記録に残るのは払ったコストだけで、払わずに済ませて逃した分は1行も残らないから

本記事は情報提供を目的とした個人の見解であり、投資の勧誘・助言ではありません。特定の銘柄・手法・サービスの利用を推奨するものでもありません。記載の制度・仕様は執筆時点のもので、その後変更されている可能性があります。投資判断はご自身の責任でお願いします。

リード

手数料ゼロ時代の実効コストで、私はこう書きました。

「往復コストの下限 = 呼値 ÷ 株価」

株価3,010円・呼値5円なら0.1661%。建玉37万5,000円で623円。手数料が0円になっても、この分は約定価格の中に必ず入っている——そういう話でした。

ただ、あの記事の最後に「これは下限です」と書いたきり、上限の側を一度も測っていません。

実際の注文は、板が薄ければ2呼値でも3呼値でも滑ります。逆指値がトリガーされた瞬間の成行注文なら、なおさらです。

そして厄介なのは、その差が公表統計のどこにも存在しないことです。手数料は明細に載る。呼値は取引所が公表している。でも「あなたが注文を出した瞬間の価格と、実際に約定した価格の差」を集計している人は、あなた以外に誰もいません。

だから記録の話になります。

先に結論を書きます。

記録から出てくるスリッページは、必ず実際より小さく出ます。約定しなかった注文が、記録に1行も残らないからです。


結論:測るべき数字は2つあり、記録に残るのは片方だけ

  • スリッページには2つの部品がある。Perold (1988) の分解では、執行コスト(約定した分について「決めた時の価格」と「約定価格」の差)と、機会コスト(約定しなかった分について、その後の値動きで失った・免れた分)
  • 記録に残るのは執行コストだけ。指値で待って約定しなかった注文は、履歴にも残らず、集計にも入らない
  • したがって**「指値にしたらスリッページが減った」は、どう測っても必ずそう出る**。減ったのではなく、悪い結果が測定対象から抜けただけかもしれない
  • 入口と出口は非対称。入口は指値で待てるので削れる。出口の逆指値はトリガー後に成行なので削れない。しかも出口が発動するのは、いちばん値が飛んでいる日
  • 試算:建玉37万5,000円・株価3,010円で、出口が3呼値滑ると1,869円。損切り−8%(3万円)に対して6.2%増し=実効の損切りは−8.5%
  • 年間では:年24回・勝率40%なら、出口で滑る分だけで年およそ2万6,900円。手数料無料化で1口座あたり年に浮いた額(約2,700円)の約10倍
  • 実装は3つ:①記録に「発注時の価格」と「約定価格」の2列を足す ②未約定の行も消さずに残す ③見るのは平均ではなく悪いほうの5本

第1部:Perold の分解——測れるものと、測れないものを先に分ける

執行の良し悪しを測る枠組みとして広く使われているのが、Perold (1988) のインプリメンテーション・ショートフォールです。考え方は単純で、「決めたとおりに全部実行できた架空のポートフォリオ」と「現実のポートフォリオ」の差を取る、というものです。

差は2つに分かれます。

部品中身記録に残るか
執行コスト約定した分 ×(約定価格 − 決めた時の価格)残る
機会コスト約定しなかった分 ×(その後の価格 − 決めた時の価格)残らない

順張りの用語に置き換えるとこうなります。

  • 執行コスト=「買えたけれど、思ったより高く買った」
  • 機会コスト=「買おうとしたけれど、買えなかった」

ここで大事なのは、「決めた時の価格」という基準がないと、どちらも計算できないことです。

約定価格だけ記録していても、比べる相手がないのでズレは出てきません。045で「記録の買値は指値ではなく約定価格を書く」と書きましたが、あれは片方だけの話でした。正確には両方いります。

  • 発注ボタンを押した時点の価格(=決めた時の価格)
  • 実際に約定した価格

この2列があって初めて、1行ごとに差が出ます。そして未約定の注文にも1行——約定価格は空欄のまま——残しておくと、機会コストの側も後から測れます。


第2部:入口は削れる。出口は削れない

ここが、この記事でいちばん実務に効く部分です。

入口は自分でタイミングを決められます。指値を置いて待てばいい。約定しなければ見送ればいい。だから執行コストは削れます。

機関投資家の実執行データ(Frazzini-Israel-Moskowitz 2018、1.7兆ドル分)で市場インパクトの平均が9.97bpと、先行研究より1桁小さかった理由も、論文自身が「指値中心の忍耐強い執行」と説明しています。待てる注文は安い。

出口はそうではありません。

つまり出口のスリッページは、選べない・待てない・いちばん大きくなる時に来る。

数字にします。033の資金逆算どおり、総資産300万円・1回の許容損失1%(3万円)・損切り−8%で、建玉は37万5,000円。株価3,010円・呼値5円(TOPIX500以外)とします。

項目1株あたり建玉37万5,000円あたり
往復コストの下限(1呼値)5円623円(0.1661%)
出口で3呼値滑った場合15円1,869円(0.4983%)
損切り幅 −8%—30,000円

1,869円 ÷ 30,000円 = 6.2%。つまり**−8%のつもりの損切りは、実際には−8.5%**で執行されています。ポジションサイジングの分母がここで静かにズレます。

年間に直します。年24回(月2回)・勝率40%なら、損切りで出るのは年14.4回。

1,869円 × 14.4回 = 約26,900円

051で計算した「手数料無料化で1口座あたり年に浮いた額=約2,700円」の、およそ10倍です。

往復コストの下限(623円 × 24回 = 14,952円)と合わせると年およそ4万1,900円=総資産の1.40%。手数料の明細には、このうち0円しか載りません。


第3部:記録は、必ず自分に都合よく出る

ここからが、この記事を書いた本当の理由です。

「よし、記録をつけて測ろう」と思って2列足したとします。3か月後、平均スリッページが出ます。たとえば入口はほぼ0、出口は平均2呼値。

この数字は信用できません。入口の側が、構造的に良く出るようにできているからです。

指値を置いて約定しなかった注文は、記録に残らない。証券会社の履歴からも消えるか、「失効」として端に寄せられます。集計する時にも自然に外れます。

結果、入口の集計には**「待って、うまくいった注文」だけ**が残ります。待って、そのまま置いていかれた注文は1件も入りません。

具体例で見ます。10回、1呼値下に指値を置いたとします。

  • 7回が約定。スリッページは平均でマイナス(=1呼値得した)
  • 3回は約定せず、そのまま上に行った

記録上の入口スリッページはマイナス=完璧です。

ところが、未約定の3回のうち1回がその後10%走ったとすると、逃した利益は建玉37万5,000円に対して3万7,500円。発注10回で割ると1回あたり3,750円——往復コスト623円の約6倍です。

つまり、削った執行コストより、測っていない機会コストのほうが大きいことがありうる。

これは「指値をやめろ」という話ではありません(第5部で自分の首を絞めます)。そう結論できるだけの材料が、いまの記録の取り方では一生そろわない、という話です。

未約定の行を残すのに追加の手間はほとんどかかりません。発注した時点で1行書いておき、約定したら価格を埋める。約定しなかったら空欄のまま、1週間後の価格だけ入れる。それだけです。


第4部:実装(15分)

  1. 記録に2列足す——「発注時の価格」と「約定価格」。037の『買う前の60秒』に発注時の価格を、約定後に約定価格を
  2. 未約定の行を消さない——約定価格は空欄のまま残し、1週間後の株価だけ後で入れる
  3. 入口は指値、出口は削らない——出口で1呼値を惜しんで指値にすると、走っている日に置いていかれる。出口のスリッページはコストではなく保険料として扱い、削る対象から外す
  4. 見るのは平均ではなく悪いほうの5本——出口のスリッページは大きく飛ぶ日に偏るので、分布が歪みます。平均は小さく出て、実際に効くのは裾のほう
  5. 損切り幅を実効値で持つ——測った出口スリッページの中央値を損切り幅に足して、ポジションサイジングの分母をその値にする(上の例なら8%ではなく8.5%)
  6. 呼値 ÷ 株価 が0.1%を超える銘柄は外す——低位株は1呼値が重く、滑った時の打撃も比例して大きい

30本もたまれば、入口の平均/出口の中央値/未約定率の3つが出ます。判断材料としてはそれで十分です。


第5部:自分に不利な材料

  1. 「3呼値滑る」に根拠はありません。私の体感から置いた仮定です。実測すれば1呼値かもしれないし、寄り付きのギャップなら10呼値かもしれない。この記事の数字は、測る理由であって、測った結果ではない
  2. 指値は実際に安い。Frazzini らの結果はそのとおりで、入口で削れるものを削るのは正しい。私が言っているのは「削った量を評価する時に分母を間違えるな」だけです
  3. 機会コストの評価は後知恵です。約定しなかった注文について「その後どうなったか」で採点すると、値上がりしたものだけが目につきます。せめて未約定の全件を同じルール(1週間後の価格)で機械的に埋めること
  4. サンプルが少なすぎて有意差は出ません。30本程度では、指値と成行の平均差を統計的に区別するのは無理です。出てくるのは「桁」だけ——1呼値の話なのか、10呼値の話なのか。それでも十分です。桁が違えば打ち手が変わるので
  5. 年24回・勝率40%は仮定です。自分の記録の実数に置き換えてください
  6. 順張りの出口は、そもそも削るべきではないかもしれない。損切りを1回引っ張るコストは、スリッページ1,869円より1桁大きい。滑る覚悟で降りるほうが安いという結論のほうが、おそらく正しい

留保

  • Perold (1988) の原論文は取得できていません。公開されている解説章(Berkeley Haas)経由の要約に基づいています。分解の枠組みだけを借用し、数値は一切引いていません
  • 呼値の単位は執筆時点のもので、2027年3月1日からSTRに基づく制度へ移行予定です(045参照)。表ではなく手順を覚えてください
  • 逆指値の仕様は証券会社ごとに違います。ご自身の口座の一次情報で確認してください
  • 建玉37万5,000円・株価3,010円・呼値5円はすべて例です
  • スリッページの測定は税務・会計上の取得価額の話ではありません(そちらは約定価格そのもの)
  • 筆者は税理士ではなく、本記事は税務助言ではありません

次に読む

  • 手数料ゼロ時代の実効コスト(記事045)——この記事の出発点。往復コストの下限の出し方
  • トレード記録のつけ方(記事037)——2列を足す場所
  • 手数料無料化で売買は増えたのか(記事051)——浮いた額の実測
  • モメチンに必要な道具一式(記事043)——逆指値が取引所の注文種別ではない話
  • エントリー前チェックリスト10項目(記事033)——建玉の逆算と制限値幅

免責:本記事は情報提供を目的とした個人の見解であり、投資の勧誘・助言ではありません。特定の銘柄・手法・サービスの利用を推奨するものでもありません。記載の制度・仕様・数値は執筆時点の公表資料および筆者の試算に基づくもので、その後変更・改訂されている可能性があります。筆者は税理士ではなく、本記事は税務上の助言ではありません。投資には元本割れのリスクがあります。投資判断はご自身の責任でお願いします。


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